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日本人智学協会の課題   高橋 巖
             1986年5月4日(日)
             日本人智学協会第一回公開講演会

 最初に申しあげたいことは、そもそも人智学というのは、「本当に自由な精神とは何か」ということを知ろうとする認識の道なのです。たとえば、最近は「知」の問題がいろいろと新たな関心を呼ぶようになっていますし、物質ではない精神の世界というものが、いろいろな意味で実感できるようになってきました。そういう現代の方向に応えて、精神というのは一つの現実(リアリティ)であって、物質と同じような生きた働きをもっている力だということを認識するためには何が必要なのか。しかもその精神を、どこまでも自由な精神として自分の生活の中で実感できるか。そういう問題意識に応えようとするのが人智学だと思っています。
 それではなぜ自由な精神が求められているのかということをまずお話したいのですが、ルドルフ・シュタイナーは1861年に生まれ1925年にこの世を去った人で、生まれた年から考えればもう一世紀以上前の人だとも言えますし、死んだ年を考えると五分の三世紀前の人ということになるのですけれど、そのルドルフ・シュタイナーが今の私たちにとって非常に身近で、まるで隣りにいる誰かと同じくらいの現実感をもって感じとれるのは、ちょうど私たちにとって音楽家のバッハやベートーヴェンやブルックナーやマーラーが、昔の人でありながら自分たちの非常に身近な存在であるのと同じで、それは彼らが残した精神が私たちにとってまったく身近なものであるからだと思うのです。たとえそれがヨーロッパ人であろうと日本人であろうと、その点ではかわりないのですが、なぜ私たちがそのヨーロッパの、一世紀以上前に生まれたルドルフ・シュタイナーに想いをかけ続けているのかと申しあげますと、私たちにとってシュタイナーは他に考えられないぐらい重要な問題意識を持っていた人物だと思えるからなのです。その問題意識というのは、現在、私たちが生活の背後に皆等しく持っているはずの先ほどの問題意識に他なりませんが、彼は非常に誠実な態度でそれと一生関わり続けました。そして現代の私たちの魂の非常に深いところにある内的衝動の意味づけをしてくれたという点で、彼は私たちにとってかけがえのない存在なのです。しかし、彼が唯一の存在かと言えば、もちろんユングとかクリシュナムルティとか、文学者で言えばヘルマン・ヘッセとかいろんな人物がそれと同じようなことをしていると思います。しかし最初に言いました、自由な精神のリアリティを実感させてくれるような認識の道を丁寧に示してくれたという点では、シュタイナーは何かかけがえのない存在のように思えてくるのです。
 そのシュタイナーが、私たちの等しく持っているはずの、ほとんど無意識に近い魂の奥底にある願望、衝動、予感、あるいは憧れというものをどう捉えていたかと申しあげますと、一口に言って、私たち皆、心の奥底で、霊的なものに対して非常に深い予感、憧れ、願いをもち続けていると言っているのです。日常生活の中では、その霊的な部分がいつでも外側から否定され続けていますので、小学校、中学校、高校の教育のプロセスの中で、そういう内的な衝動がほとんど殺されてしまっているのかも知れませんけれど、しかしどこか心の片隅で、夢の中で、あるいはふとした思いの中で、そういう予感が心の奥底から現れてきます。自分ではそういうものを意識的に否定しているように思える人でさえも、どこかでそういうものがあります。現実にはそれを傷つけたり、無視したり、侮辱したりして、そういうものがあたかも存在しないかのように思っている人にも、それがあると言えるのです。それは現実の日常生活の中で意味があるどころか、それなしには生きている意味がないくらいの生活の支えになるべきものだ、ということをシュタイナーは一生をかけて明らかにしようと努力した人なのです。
 このことが、これから少し申しあげたいと思っている自由という問題と深く結びついてくるのです。なぜ自由なのかということに関して、あるときシュタイナーはこんなことを言っているのです。晩年のシュタイナーがいよいよ社会運動の実践にのりだした頃に、アメリカの大統領でウッドロウ・ウイルソンという人がおりました。彼は国際連盟というものを提唱し、そして「自由」についていろいろと述べていたのですけれど、その時にウィルソンは自由を船出する船にたとえました。そして船にとっての自由というのは、風の向きですとか、海流の流れですとか、天候ですとか、あるいは自分の船の性能ですとかを見極めて、できるだけ抵抗の少ない形でよりよい航海ができるようになったとき、その船にとっての自由がある、という説明をしたのです。同じように、ひとりの人間にとっても、現代の社会に抵抗なしによりよく生きることができるために、子どものときからその準備をし、そして実力をつけ、社会にとって必要な人物に自分を研きあげて、そして一生をその特定の社会の中の有力な存在として自分を生かすことができれば自由だ、と言うのです。けれどもルドルフ・シュタイナーは、自分たちにとっての自由というのは、ウィルソンの言う自由と正反対のことをやったときに実現されると言っています。たとえば風向きが逆に吹いていようと、反対の方向から潮が流れて来ようとも、それに逆らってでも行きたい所に行けるのが自由なんだ、と言うのです。
 これは一つの譬喩にすぎませんが、シュタイナーがどうしてそういうことを言いたいのか、もう一つ別の例で言いますと、人間は自由なのか自由でないのか、ということが問題になったときに、シュタイナーはそれに対して答えようとしないのです。それは問いかけとして正確ではない、と考えているからです。むしろ自由に関する問題が出てくる場合には常に、自分にとって自由は可能であるか、自分にとって自由は実現できるものなのか、と問うべきであって、人間が自由であるかとか自由でないとかという問いかけは、問いとして存在しないと考えているのです。もし、たとえば人間は自由なのか不自由なのかという問いになりますと、「人間」という言葉の下に何を理解しているかと言うと、現在の我々自身を肯定的に理解しているわけです。しかしシュタイナーにとって大切なのは、自分たちが本当に自己を実現しているのか、していないのかということであって、その実現するプロセスの中で初めて自由の問題が見えてくると考えたのです。ですから今の自分の存在が自分にとって納得のいくものかどうか、というところから自由の問題が始まると考えたのです。そしてその意味での自由が意味を持つかどうかは、私たちひとりひとりが内的な衝動として持っている霊的な力、精神のリアリティというものを肯定するか、しないかにかかっていますから、人智学は先ほど言いましたように、自由なる ― 言い換えれば、自分の内から生まれて来ようともがいている内的衝動に対して忠実なる ― 精神のリアリティを明らかにしようとするのです。
 そういう思想がルドルフ・シュタイナーによってつくり上げられました時点で、シュタイナーは1923年、今からやはり半世紀以前ですけれど、一般人智学協会という組織を作ったのです。この組織には霊的に非常に重要な意味があります。私が理解している一番重要な意味というのは、いわゆるオカルト的な結社を、オカルト的な結社ではなく、まったく自由な開かれた協会という形に直したことだと思うのです。秘密結社とかオカルト結社とか言われているさまざまな結社がありますけれど、その結社においては、自由なる内的衝動を個々に生かすことよりも、特定の目的を皆で共通に担い合うこと、そのために自分を捧げるということがどこかで前提になります。けれども日本人智学協会を含めた本来の人智学協会の場合には、特定の目的を共有して、そのために自分を捧げるという発想よりも、もっとそれぞれが自分自身で自分自身の目的を設定しまして、それを実現するために皆がどのように助け合えるかを目指して会を作ろうとしているのです。ちょっと微妙なニュアンスの違いのように思われるかも知れないのですけれど、世界の人智学協会の本当の存在理由はそこにある、と私は理解しています。言い換えますと、私たちひとりひとりが、クリスチャンであろうと、仏教徒であろうと、マルクス主義者であろうと、あるいはそういうことを何も考えない人であろうと、その時点で内なる精神のリアリティに関わろうとしているかぎり、その意識的な立場がどこにあろうと、そういうことに対して外側から規制するのではなくて、それぞれが今置かれている自分の状況を踏まえて一歩でも先に進もうとすること、そのための道をつける行為を共同でやろうとすることが人智学協会ということになるわけです。
 私たちはそれをどういう形で実現できるかわかりませんので、まったく手作りでそれを作っていこうと考えています。手作りで作っていこうというのは、いわば芸術的な行為をしようということなのです。芸術家にとって自分の目の前に置かれたキャンバスにどういう絵が描かれることになるのか、あらかじめ全部わかっていたら芸術行為にはなりません。作品をつくるプロセスの中でその都度新しいインスピレーションを受けながら、まだ存在していない何か新しいものを作ろうとするのを、芸術行為、創造行為ということができるとすると、その行為のプログラムが先にあるわけではなく、皆が手探りで実践活動を続けながら、その時その時により創造的なもの、何か新しいものを作っていくのです。したがって私たちにとって大事なのは、人智学の思想を普及するということでもないし、人智学の思想を大切に守ろうとすることでもありません。それぞれが大切にしている何かを、もっと自分にとって切実なものにするためにどういうことができるか、その方法論を共有したいという考え方なのです。自分が今大切にしているものが何であるのか、その大切なことの本当の意味が何であるのか、そのことの理解を深める認識の道具として人智学を使いたいのです。
 私たちはそもそも在るということ、存在するということの意味を決して外側から説明していこうとしませんで、内側から実感しようとする態度をとるわけです。たとえば一つの例を申しあげますと、シュタイナーが言うには、アインシュタインの相対性原理を、物理学的な問題は今一切おくとして生き方の問題だけに置き換えて考える場合、もし相対性原理というものを人生の中に取り込むと、つまり、存在というものは相対的なものであって、それ自身がどういう動きをしているのか、それ自身の絶対的な行動あるいは運動というものは外からは確かめられない、相手と自分との関係する中で、そのことはもっぱら相互の関係性として相対的なものとして現れてくるにすぎないと考え、そういう考え方が存在に対する根本的な捉え方になって知らず知らず人生観の中に移ってきたとすれば、どんな立場もどんな態度もいわば相対的なもので、それ自身絶対的な意味というものが考えられないという考え方になってしまいます。しかしシュタイナーはそういうことが相対的なものであるとは考えられない、と言うのです。近づく動きがあった場合、自分が相手の方に近づいているのか、相手が自分の方に近づいているのかというのは、近づくという行為のために自分が内部でエネルギーを燃焼させているのか、それとも相手がその内部でエネルギーを燃焼させているのかによって決まってくることだからです。もし動くという行為があるのだったら、その動きの中には内的に動きを生じさせるための活動が認められなければならない。その動きを可能にするエネルギーの消耗がどこでなされているかを考えると、どちらがどう動いているかがわかってくるというのです。そういう考え方というのはプリミティブな考え方かも知れませんが、シュタイナーにとってはこのことが一番大事なことで、たとえばある人間がどういう人間なのか、立派な人間なのか、そうでないのかを評価することはまったくシュタイナーにとって意味がなく、その人間の内部の霊的なエネルギーがどれほど働いているかということにもっぱら人間の存在のありようを見ようとしているのです。
 私たちがそれぞれ存在に内的に関わっていこうとするとき、その内的な関わりを更により深めるために人智学協会というものが存在するのだ、と私たちは考えています。存在することの意味をひとりの人間が自分の中で実感することもできますが、しかし互いに、自分と相手との中で、そのことを実感し合うということに非常に大きな意味があるのです。自分はこちらの方向へ行く、彼は全然別な方向へ行くということがわかっていても、そのことにこだわることなく、互いに内的な衝動を誠実に生きながら、自分はこちらの方向へ、相手は向こうの方向へ行っているのだと互いに確かめ合うことに意味があるのです。そのとき初めて、今、私たちが同じ時代に共に生きている人間なのだという一種の基本的な共属感情、共同体の思想をそこで実感できるのです。そのように私たちは考えます。
 日本人智学協会の共同体思想の根底にどういう基本的姿勢が見られるのかということを申しあげたいと思いまして、以上の話をいたしました。

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